公開日 2024年08月16日
更新日 2024年09月03日
小幡記念図書館の「小幡」って?
小幡記念図書館の「小幡」とは、「小幡篤次郎(おばたとくじろう)」をさします。
小幡篤次郎は『自分が死んだあと自分が生まれた土地と持っている本を使って図書館をつくり、広く市民に利用してもらえるようにしてほしい』と遺言※(ゆいごん)を残しました。
篤次郎が亡くなった4年後の明治42年(1909年)に、彼が生まれた家が建っていた場所(現在の新中津市学校の場所)に彼が持っていた本と藩校※進脩館(はんこうしんしゅうかん)の本をおさめた「中津図書館」が誕生しました。
のちに篤次郎の中津の若者のために図書館をつくってほしいという強い思いを忘れずに残しておくため、名前は「小幡記念図書館」に変えられ、今にいたっています。
小幡記念図書館は、平成5年(1993年)に現在の場所(藩校進脩館があった場所)に移されました。
※遺言…自分が死んだ後のために生きているうちに言いのこすことば
※藩校…江戸時代、藩が藩の武士の子どもを教育するためにつくった学校
小幡 篤次郎って?
小幡 篤次郎(1842-1905)は、江戸時代末期の中津藩士で、明治時代の教育者・思想家です※。
幼いころから父から四書五経(ししょごきょう)※を習い、藩校進脩館で漢学※を学び教頭になりました。福澤諭吉のすすめで江戸に出てからは、福澤の塾に入り英学※を学び塾長にもなりました。また、江戸幕府の教育機関である開成所の英学助教にもなり、アメリカやヨーロッパに行き様子を見てまわりました。
篤次郎は子ども向けの理科教育書から経済などの専門書まで幅広い洋書※を翻訳(ほんやく)※し、明治の教育に大きな影響を与えました。『天変地異(てんぺんちい)』や『博物新編補遺(はくぶつしんぺんほい)』など、多くの著書(ちょしょ)※があります。
また、篤次郎は福澤諭吉に寄り添い慶應義塾(けいおうぎじゅく)※の経営に力を注いだことは知られています。福澤諭吉は中津にも西洋の学問・語学を学ぶ学校をつくりたいと考え、現在の南部小学校の場所に「中津市学校」を開校しました。篤次郎は初代校長となり多くのすぐれた人材を世に送り出しました。
※思想家…社会・人生などについての深い思想(考え)をもつ人
※四書五経…儒教(じゅきょう=孔子の思想による教え)で、重要(じゅうよう)な経典(きょうてん)として尊重(そんちょう)された書物
※漢学…江戸時代の日本における、中国から伝わってきた書物・中国思想・漢詩文の研究
※英学…英語を学び、英語を通して取り入れられた学問、技術
※洋書…英語・フランス語・ドイツ語など日本語以外の言語で書かれた本など
※翻訳…ここでは日本語以外の言語から日本語におきかえることをいう。
※著書…その人が書きあらわした書物
※慶應義塾…福澤諭吉が江戸に開いた蘭学塾から始まり、現在は小学校から大学・大学院までをかかえる、日本で最も長い歴史を持つ総合学塾の一つ
小幡篤次郎をさがしてみよう♪
小幡記念図書館内には、小幡篤次郎の石像や小幡篤次郎コーナーがあります。来館時には、ぜひ探してみてください!
小幡篤次郎(石像)
- 小幡篤次郎(石像)
小幡篤次郎コーナー
小幡篤次郎コーナーには、「学問のすゝめ」初編や「天変地異」、詩歌を詠(よ)んだ色紙などを展示しています。
- 小幡記念図書館1階館内図
学問のすゝめ初編には福澤諭吉と小幡篤次郎の同著と書かれているよ♪